隣の飯はなぜ不味い?

他所の家で出された飯って心から「美味しい」って思って食べられなかった。
まあ、10代の頃の話なんですけれども。

別に不味いわけじゃないけれども、いや、リアルに不味い時もたまにはあったかもしれないけど、友達のお母さんが作った飯ってビミョーなカンジだったりしないですかね?
当時はその理由を深く考えたことなんてなかったけど、家によってレシピや使ってる調味料が微妙に違ってたりして慣れ親しんだ味とは違うし、調理器具や食器なんかの清潔度の懸念やなんかで受け付けないのかな、くらいに思ってました。

でも、そう言えばこのトシになると友達の家で友達が作った飯を食ったりすることもあるけれど、友達の作った飯って別に慣れ親しんだ味じゃなくても「お、これ割りとイケるじゃん」みたいなカンジだったりするワケですよ。
第一、他所の釜の飯が微妙なんだとしたら外食産業なんて商売になってないわけで。

然るに、これってその料理の作り手との心の距離が関係してるんじゃないかな、みたいなことをフと思いました。

心理学では心の距離をソシオメトリーというスケールを使って物理的な距離として測ることができます。
単純に相手との心の距離だけを測るとすれば、誰かと並んで座った時、何となく落ち着かなかったとします。じゃあ、落ち着ける位置まで離れてください。と言われてその相手と取った距離がいわゆる心の距離なワケですが、物理的な距離が心の距離よりも近い場合に人は何らかのストレスを受けるワケです。ここでいうストレスとは、好きな人の隣に座ってもうドッキドキみたいな嬉しい意味でのストレスも含みます。

そう考えると友達のお弁当の玉子焼きがお母さん作であるにもかかわらず美味かったことも納得できます。学校、即ちその玉子焼きを作った友母のいない空間でなら作り手である友母におでが食べることを意識されることもないしおでは作り手である友母を意識することなく何のストレスも受けずに玉子焼きを失敬することができるわけですね。

まあ、これにはもっと他にテリトリー意識とか投影イメージなどの心理的背景も絡んでくるのかもしれませんが、精神状態が味覚に影響を与えてるのは確かだと思います。

もちろん、ドコで何食ってもマジ美味いっていう人もいると思います。
己が家の飯が慣れ親しんでいるということも問題にならないほどに不味いという不幸な人も普通にいるでしょうし、そんな不幸を背負ってない場合に関しては(もしも前述の推測が当たっているとすれば)一歩間違えればアホっぽいさんかKYさんになりかねないので注意が必要ですw
作る側の気持ちで言えばそういう人にこそ食べてもらいたい、アンタ、食いなはれ、アホほど食いなはれ、という気持ちになるかと思われますが、調子に乗ってると事態は急変して「図々しい子」呼ばわりされそうなのでやっぱり注意が必要かもしれません。