小論文とおで

小論文の提出期限が迫ってきたので、これまた今朝早くから必死で小論書いてました。
テーマは「生と死について」で原稿用紙に最低でも3枚は書く事、というものですが、またしても手書きの作æ\­ã¨ã„う事で全くテンションがあがりません。
そこで、まずはWordでサラっと文章を打ち込み、原稿用紙に書き写すことにしました。

サラっと

 

のハズなのに、何故か原稿用紙11枚分です。

書き写した本人がビックリです。有り得ません。どこらへんが『小』なのか、とw
Wordで打ち出したモノを見る限りはB5サイズで4枚弱と、小論文としてはまあ適切な文量のように見えたのですが、一体ドコでナニが狂ったのでしょうか。
もう一度頭から文章を見直してみます。

 

第一段落:テーマの概論を打ち立てる

第二段落:その概論を裏付けるデータなどの提示+少し突っ込んだ問題提起

第三段落:問題に沿った自分の経験や文献などからの引用

第四段落:問題提起から結論に至るまでを要約

第五段落:結論

構成としては確かに小論文です。どこだ、どこが余分なのだ?

おでがこの小論を通して述べたかった事は、「生とは?死とは?」みたいな答えの出ない事をうだうだ考えるよりも、よりよい死を迎えるためによりよい死とは何かを理解しそのためにどう生きるべきかを考える方が重要なのではないか、それが生命を尊ぶことに繋がり看護という仕事にも役立つのではないか、というような事です。
で、どこが一番長いかと言うと、その考えを持つに至った経験の部分です。そこだけで原稿用紙5枚いっちゃってます。その経験談に、同じような生死観を提唱する参考文献に関する記述を加えた第三段落全体で見ると原稿用紙7枚を使っています。

なんて言うか、そこは要約できませんよw


そこでおではこう結論しました。

小学生の読書感想文じゃあるまいし、400字詰め原稿用紙3枚は少なすぎる!と。

たしか「最低でも3枚は書いてください。自分の経験談なんかをå…\れて書いたら5枚くらいにはなるかもしれませんねー」とは言ってたけど、上限何枚かは言ってなかったもんね!

よし。解決したw
って、この小論文は期末考査の評価に関わるので文量が多い事で減点でもされたら解決も何もありませんよ。

確かに、おではそこそこ文章力がある方だと自負してます。まあ、ヒトからそう言われれば一応謙遜はしますが、正直に言うと自負してますw
だが、おでの書く文章には重大な欠点が2つほどあります。いや、飽くまで私的ではなく公用として書いた真面目な文章の話ですので、このブログだけ見て「2つどころじゃないだろ」とか思うのはやめてくださいw

一つに、おでには文章を短くこざっぱりまとめる事ができません。
何故なら、そういう文章は書き手の意図とは全く違う意味に取られたりする事があるからです。ましてや読解力の弱い阿呆に読ませると内容をå±\き違えるä»\前に「意味わかんないしツマンナイ」とか言って三行で読むのをやめてしまうでしょう。
今の一文にしても1を聞いて120くらいわかっちゃう人が相手なら「そういう文章は違う意味に取られる場合がある」だけで充分かと思われます。というようにおでの場合、できるだけ誰が見ても正しい意図を解釈してもらえる文章を書く事を信条としています。

たとえ相手が国語の先生だからと言っても、おでの期待する読解力を備えているとは限らないのです。中学の時も、高校の時もそうでした。
æ—\本語の文法の中には暗喩というテクニックが存在しますが、先生は生徒がそんな高等テクニックを使うなどとは考えもしないのか、作文や随筆に暗喩を使っても「この一文は必要ないですね」と平気で削らせようとしたりしますし、ある時はそんなテクニックとは関係のない部分で「これは、本当に自分で書いたんですか?」と聞かれた事すらあります。「これは、本当に国語の先生ですか?」とコッチが教育委員会に聞きたいくらいです。

しかし、それでもおでにはしっかり読解力が、しかも上中下で言えば特上寿司くらいの読解力が身についてますので、「そうそう!そういう先生がいるからウチの子、国語がダメなのよ~」とかって変な同意の仕方をされては困ります。

おで的には、読解力などというものは学校で教わって覚えるものではないと考えています。それを身につけさせるのはどちらかと言えば親の役目だと思います。最近のモンスターナントカは何でもかんでも教師のせいにしてしまいますが、ぶっちゃけ小学校に上がるまでの段階である程度の読解力をつけさせておくのが親の勤めというものです。そうして種を蒔いておけばあとは義務教育課程の中で子供は自力でその読解力を伸ばしていくものです。読解力が弱いからと言ってそれは決して教師だけのせいでもなければ先天的能力だけの問題でもないのです。80%くらいは親のせいです。空気を読む力にしても、これと全く同じ事が言えると思います。

逆に、理数系が弱いのは80%くらいは教師のせいと言って過言ではないですw

ちょっと話が逸れましたが、そんなワケで、国語の先生すら信用できないおでとしては、相手の読み取る力に依存する文章ではダメだ、という境地に至ったのです。
先述の小論で言えば、「筆者の言いたかった事は何でしょう?」と誰に問うても太字になっている部分を答えとして導き出せる文章になっていなければわざわざ書く意味がないと思うのです。これが小説ならそこまで考えなくてもいいですがね。

で、そんな文章を長く書き続けているとスリムアップした文章を書くのが怖くてたまらない病になります。
何度添削しても「いや、この比喩は必要だ」「ここは敢えて遠まわしに表現すべきだな」「このくだりはもう少し強調した方が」という具合に削れるトコロは一切ないまま添えるトコロだけが増えていきます。これでは添削じゃなく添々です。て、思いっきりダメじゃんw

でもまあ、今のような文章スタイルになって「おもしろい」「わかりやすい」「長いけど苦にならない」などと言ってくれる人が増えたのは確かですし、おでも結構気にå…\ってはいるんですがね。今回のようにある種の制限があったり形式に乗っ取った文章を書かねばならない時には全く使えない悪い癖だと言えます。


て言うか、小論の宿題は書き出しに軽く触る程度のつもりで、今æ—\書きたかったのはこんな事じゃなかったハズなんですが、ここまででまたしても結構な長さになってしまいました。それに、早くもおねむです。
なので、重大な欠点のあと一つは何なのか、という謎を残したまま小論の話はここで終わりにします。